以下は、前田 吐実男による。
はじめに
「非人称存在」という言葉を初めて聞かされたのは、今から十数年以前。私がまだ「現代俳句年鑑」の編集を担当していたころのことである。その年鑑の巻頭座談会の一つとして、タイトルは「詩の現在そして俳句」、サブタイトルを「金子兜太、宗左近に聞く」として、平成八年二月十三日、上野の鷗外荘で両先生に対談をお願いしたときのことである。
対談の途中で金子さんが小用に立たれたとき、宗さんに「前田さん、あなたは非人称存在を信じますか」と聞かれたのである。
私も初めて聞いたものだから「非人称存在」というのは、どういうことなんだろう。と一瞬戸惑った。
俳句は非常に短い詩型だから、伝説的に一人称省略という表現手法がある。そのことをおっしゃっているのかなあと思っていたら、宗さんが「一人称省略もあります。だけどそれだけじゃないんですよねえ」と、非常に含みのある言葉をおっしゃる。話しているうちに金子さんが戻られて、対話が続けられた。その対談の中で、宗さんが「俳句には、非人称存在が出やすい」と言って、金子さんの句を何句か例句として掲げている。私も、ああそういうことなのかと、おぼろげながら、そのときは非人称存在の意味が判ったような気がしたのである。だがいい加滅な理解では困ると思い、対談を終えて家に帰って調べたのだが、「非人称存在」なんて電子辞書を引いても、『広辞苑』にも『大辞林』にもない。宗さんは、フランス文学者でもあり、哲学者でもあるので、哲学用語かなと思い、『哲学辞典』を調べたが出ていない。仏教にも造詣が深い方なので、その辺も調べたが出ていない。 それから半年が経ち、何かの会合で栄さんとお会いしたとき「非人称存在をいろいろ調べたのですが、全くないのです。宗さんの造語じゃないかと思っているんですが、どうなんでしょう」とお聞きしたら、にやにや笑って、「まあ、そう思ってもらっても簡構ですよ」とまたもや曖昧な返事で演されてしまった。 どこかに原典があるのかも知れないが、私は今でも宗さんの造語ではないかと思っている。 その後、「非人称存在」の考察を私なりにまとめて、平成十七年七月三十日に「現代俳句講座」で講演をした。その記録をご覧になった宗さんが「前田さんの非人称存在に対する認識は大旨正しいと思いますが、もう少し分析してみて下さい」と、そのとき大変な命題をまた渡されてしまった。
俳句には非人称存在が出易い
俳句は非常に短い語型だから、伝統的にも一人称省略という表現手法がある。そのために作者が登識しなくとも「非人称存在」が出易いのである。人様の句を探すのは面なので、唇越ながら自分の句を例句に掲げるが、
例1 鰹四半身買っていそいそ荷風の忌 吐実男
例句の如く一人称省略でも、一句の対象(主体)の中に作者(個我)が存在していたのでは「非人称存在」とは言わない。
例2 バラの花こじ開けているダンゴ蜂 吐実男
ダンゴ蜂を眺めている作者は存在しているが、例句の対象の中からは個我(作者)が完全に消えている。この句は何も非人称存在を意識して作った訳ではなく、景を見ていて、あっ、ダンゴ蜂の奴、開いている花に入ればいいのに、まだよく開いていない花をこじ開けて入ろうとしている。そうか開いている花は先に誰かが密を吸っちゃって、もう滓(かす)しかないんだ。やっぱりパージンの花の方がいい訳か。ああ、こいつも人間と同じだ、と思って、蜂がバラの花をこじ開けてもぐり込むまで見ていて出来た句だ。「ダンゴ蜂」即ち非人称に人開存在の本質もそれなりに捉えることとなり、結果的に「非人称存在」の句となったまでのことである
非人称存在俳句の特徴
一つは「個我」が消されていること。
俳句は個我を消せる文学だと言われているが、その個我が完全に消されているのが非人称存在句の第一の特徴である。 一人称省略の俳句も確かに一句の中に我・俺・私などの言葉は入っていないが、一句の対象(生体)の中に「個我」が存在していて、非人称存在の句とはそこが違うのである。それゆえに非人称存在の句の実態は、人に非ず、どこまでも自然であり物なのである。ここでまた問題が一つある。
では自然や物だけを対象にすれば非人称存在の句となるのか?といえば偶然そうなることもあるが、ほとんどはそうならないのである。その理由は、たとえ対象の「実」を捉えたとしても、作者の意識が句の対象と向きあったまま存在していたのでは、そうはならないのである。そこで二つめの特徴の出番となる。
二つめの特徴は個我を消しての主観の客体化。主観(観念・想念・情念など)をモノで表現する。ということは、作句の基本でもあり誰も承知していることなのだが、肝要なのは同時に個我を消すことにある。そう推敲することによって、主観の客体化がなされるのである。「主観の客体化」とは、作者(主観)が一句の対象と一体となることである。例句2でいえば「ダンゴ蜂(非人称)」に人間存在の本質を捉えたことにより、「ダンゴ蜂」が「人間」になり、人間がダンゴ蜂ともなり得て、そこで主観の客体化がなされる。私はこれをなおかつ「虚実自在である」として三つめの特徴として掲げておく。
従って、この句を比喩として、一人称でも、二人称でも、三人称としても鑑賞が出来得るのである。これが四つめの特徴。
一人称なら「ダンゴ蜂」は作者または読者(俺)。二人称なら彼、あいつ、君。三人称なら男全般。ということになる。 五つめの特徴は、ここで繰返し説明することもないのだが、人間存在の本質をそれなりに捉えているということである。この例句の場は「主観の客体化」の反対の「客体の主観(観念)化」とも言えるのではないか。それと、主観が先か、客体が先かのことは、作者のみぞ識ることでよいのである。
例3 源五郎着水せしが水溜り 吐実男
源五郎は天気の良い日に、今住んでいる池を這い出して飛び立って行くことがある。人間もそうなのだが、今居る所で満足すればよさそうなものを、何処かいいところはないものかと飛んで行って香水したら、なんだ水溜りでしかなかった。実際に夏になると水溜りに源五郎がいるのをよく見かける。こいつ何処へ行くつもりだったんだ。理想と現実の違いに戸惑うのは人間とて同じか。さて、これからどうする。という非人称存在の例句。勿論主観は「理想と現実の矛盾」。客体は源五郎。例句2と同根源五郎が「非人称存在」として捉えられているから、源五郎(客体)が一人称二人称三人称にも鑑賞することが出来得て、前掲の非人称存在の特徴を持っている。
例4 日の暮れには人釣っており浦島草 吐実男
浦島草は如何にも日暮に人を釣っているようだ。それを比喩として受け取ると、浦島草の奇妙で妖し気な花は、新宿などの盛場によく行っていて、鼻下長族を釣っている夜の花とイメージがダブッて諧謔味をもった表情になる。これも非人称存在の一句である。次に金子兜太の句を例句として数句を掲げる。
5 猪が来て空気を食べる春の味 金子兜太
ああ春になったんだなあ、という非常に気持ち良さそうな感覚。作者の(主観)が「空気を食べる」という「猪(非人称)」によって人間存在の本質をも捉えている。そのことによって我が完全に消され、虚実自在となり、一人称、二人称、三人称にでも鑑賞することが出来る。比喩として鑑賞すれば、作者や読者、総ての人が猪にもなり得るということである。
例6 春落日しかし日暮れを急がない 金子兜太
春の落日は、子午線の関係でゆっくりと落ちてゆく。それを人が眺めていると、如何にも日暮れを惜しむかのように思えてくるのである。「しかし日暮れを急がない」ということで主観の客体化がなされ、「春落口(非人称)」により人生晩年の境涯(人間の本質)をも抱えて、非人称存在の句となったのである。
例7 とりとめもなし無住寺のごきぶり 金子兜太
無住寺というのは法事のあるときにだけ開いて、あとは誰もいない。法事が終るときっさと供物の食物などは持ち帰る。こぼれたものも少しはあるにはあるが、それが無くなったらごきぶりの食堂もそれでおしまい。確かに人間という天敵のいない無住寺に住んでいれば引っ叩かれて殺されもしないが、身の安全と引換えに食べ物が無い。お寺と思って飛び込んだところが、無住寺だったという滑稽さがある。「とりとめもなし」という措辞によって主観の客体がなされ、「ごきぶり(非人称)」で人間存在の本質を捉えている。
例8 冬眠の蝮のほかは寝息なし 金子兜太
これは間違いなく先に主観ありきの句である。蝮は蛇類の中でも毒があり、向う気が強くてなんにでも噛みついてくる。そんな人物を蝮に見立てた兜太一流の造型句である。一人称なら作者、読者でもある俺。二人所なら奴。三人称なら蝮のような奴全程。「ほかに寝息なし」で主観の客体化がなされ、「冬眠の蝮(非人称)」によって人間存在の本質を捉えた一句。
例9 行きあたりばったり跳んで道おしえ 松澤 昭
「道おしえ」は斑猫(はんみょう)の別隊。二センチぐらいのやけに派手な虫で、歩いてゆく人の先々を跳んで行き、あたから道をおしえているかのようなのでその名がある。「道おしえ」を先生に見立てての心象造型の一句である。一人称なら作者。読者でもある俺、私。「行きあたりばったり」で主観の客体化がなされ、「道おしえ(非人称)」によって人間存在の本質が捉えられている。
「非人称存在」と「空」とのかかわり
「非人称存在」の俳句には、作者が「空(くう)」を認識していようと、「空」の意識が無かろうと。「空」がかかわっているのである。そのことにより「非人称存在」の主要な特徴である「個 我を消し、主観の客体化」がなされるのである。
非人称存在はアニミズムでもある
例句2から9まで見れば解る通り、対象(客体)である「ダンゴはち」「源五郎」「浦島草」「猪」「春落日」「ごきぶり」「蝮」「道おしえ」という非人称によって、いずれも人間存在の本質を捉えている。ということは、何れの対象にも人間同様の「霊魂」があると非人存在の句は捉えているからである。だからといってアニミズムはすべてが「非人称存在」かというと、そうではない。 前記の五つの特徴が揃っていなければ「非人存在」の句とは言わないのである。またいくらな魑魅魍魎な言葉を入れてもアニミズムとはいわない。ということも付け加えておこう。
これで「非人称存在」についての私の考察は終わるが、一句の可否優劣の判断はまた別次元である。
前田 吐実男