非人称存在の俳句の魅力
「夢」句会では、非人称存在の俳句作りを重要な手法と位置付けている。
そもそも「俳」という字が示すように、俳句は人に非ずというところから出発しているわけだが、非人称存在の俳句では個我が消えているのである。
一般的に個我とは、一人称であり自分自身ということであろう。俳句の基本から考えれば、一人称省略は極めて当然の形式であるが、一人称が省略されてはいても句の中に個我が存在するのが普通である。しかし、非人称存在の俳句では個我は完全に消滅しており、主語としての人称は存在しないのである。つまり自分自身だけではなく二人称、三人称を含めすべての人間の考えや行動が消されており、主体は自然でありモノである。
俳句の中でモノは風景や季語としての役割をするのではなく主体として存在するのである。言い換えればモノが虚ではなく実としての行動をするのである。ところで、例えば一般的な風景を詠んだ俳句では個我が消されていたとしても作者の主観は主観として存在するのだが、非人称存在の俳句では主観が作者の意識から分離する。つまり、主観の客体への移行が行なわれるのである。主観がモノに乗り移り、モノが主観を持つことになるのである。
非人称存在の俳句は、主体をモノで表現するだけでなく、作者の主観が一句の対象(モノ)と一体となることがポイントである。そこでは作者の主観がそのまま一人称としてモノの中で主体的に表現されるのではない。主観がモノの中でいわば独立的に作用する客体として存在するのである。それは、作者がモノであり、モノが作者になるという自在性を意味する。すなわち、虛実自在であると言えるだろう。
もう一つの特徴は、個我が完全に消滅しているという前提を踏まえた上で、様々な人称に置きかえて鑑賞することも出来ることである。主語が一人称でも二人称でも三人称でも、十分に様になった鑑賞が出来る俳句なのである。
非人称存在の俳句は人間存在の本質をとらえていると、結社創始者の前田吐実男は語っている。
